こんにちは。
吉田城 のある豊橋に来て約半年。中学・高校時代の歴史の授業を思い出しながら豊橋の歴史を勉強中のちゃんらいです。

豊橋公園の中にある、吉田城祉。
今回は、この吉田城についての歴史をご紹介します。
吉田城って誰が作ったの?吉田さん?そんな事を考えているのは僕だけでしょうか?
途中クイズ形式にしているので、皆さんも考えてみて下さい。

吉田城 の城主

吉田城の城主に吉田さんは何人?
1)5人
2)1人
3)0人

はじめにどうしても気になるのは、吉田さんの人数です。
1505年から存在するこの吉田城は、いったい何人の「吉田」さんがいるでしょうか?
豊橋市美術館の資料によると、下記の通りです

城主 入封襲封年
牧野古白
(左衛門成時)
永正2年(1505)
戸田金七郎宣成 永正3年(1506)
牧野成三・信成 永正16年(1519)
松平清康家臣某 天文元年(1532)
大橋和尚 天文5年(1536)
戸田金七郎宣成 天文6年(1537)
大原資良
(小原鎮実)
天文15年(1546)
酒井忠次 永禄8年(1565)
酒井家次
池田輝政 天正18年(1590)
松平家清 慶長6年(1601)
松平忠清 慶長15年(1610)
松平忠利 慶長17年(1612)
松平忠房 寛永9年(1632)
水野忠清 寛永9年(1632)
水野忠善 寛永19年(1642)
小笠原忠知 正保2年(1645)
小笠原長矩 寛文3年(1663)
小笠原長佑 延宝6年(1678)
小笠原長重 元禄3年(1690)
久世重之 元禄10年(1697)
牧野成春 宝永2年(1705)
牧野成央 宝永4年(1707)
松平信祝 正徳2年(1712)
松平資訓 享保14年(1729)
松平信復 寛延2年(1749)
松平信礼 明和5年(1768)
松平信明 明和7年(1770)
松平信順 文化14年(1817)
松平信宝 天保13年(1842)
松平信璋 弘化元年(1844)
松平信古 嘉永2年(1849)

 

豊橋市美術館ホームページ資料を基に作成(http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=707
 
ということで、「吉田」という名前がつく方は一人もいません。というのも城主の名前ではなく、地名が由来となっているのですね。

吉田城

吉田城 の築城

続いて第二問、先ほどの問題がヒントになるかもしれませんが、吉田城の元の名前はなんでしょう?

1) 田原城
2) 今橋城
3) 二連木城

吉田城を築いたのは、牧野古白という方です。
1505年に今川氏親の指示によって築城されたこの城は、西三河で勢力を伸ばす松平氏に備えて築城されたと言われています。築城の当初は今橋城と名がつけられていました。ところが、永正3年に今橋城は攻め込まれ、古白氏は自害してしまいます。

その後、1518年に城を奪い返した子の成三と信成は1522年に今橋城を吉田城に改められたと伝えられているそうです。誰に攻め込まれたのかは諸説あり、築城を命じた今川氏親が攻め込んだという説もあるそうです。謎が深まるお話ですね。

吉田城主の移り変わり

盛者必衰の世の中で、今川義元の支配下となった東三河は、桶狭間の戦い後、徳川家康の支配下となります。
豊臣秀吉が天下統一を行うと、家康が関東へ移封することとなり、豊臣秀吉の家臣池田輝政が入城します。天下分け目の戦いとも言われる関ヶ原の戦いでは、徳川率いる東軍に属したことにより、戦功によって池田輝政は吉田を去ります。

江戸時代となって吉田藩主となるのは松平氏です。1601年入封の松平家清から幕末の松平信古まで九家22代が就きました。
室町幕府の時代から、幕末まで、300年以上にわたり東三河の歴史を見てきたわけですね。

吉田城のいま

宝永四年の10月4日と、嘉永七年(1854年)11月4日に起きた大地震、安永八年の「宗淳火事」といった災害に見舞われた吉田城周辺は、当時の建物の姿はありませんが、鉄櫓の跡地には昭和29年に櫓が再現され、いまでも残る石垣とともに歴史を感じる広場となっています。

私の生まれた街の近くにはお城が存在していなかったので、このような戦国時代の証人とも言うべきお城の敷地が身近にあるのはとても新鮮でした。
そんな豊橋の中に残る歴史を感じながら、豊橋公園を歩いてみるのも面白そうですね。


 
 
 
 

 
■□■東三河の求人サイト**TASUKI**■□■
こんな仕事が東三河に!?という仕事が多数掲載!
「地元で仕事を探そう」と思ったら、まずはTASUKIをチェック!

 
【地域】 豊橋 豊川 蒲郡 新城 田原 東三河
【雇用形態】 正社員 パート アルバイト 新卒 転職
【職種】 製造 技術 開発 販売 営業 事務 IT 軽作業