豊橋祇園祭の開催まで残り1週間となりましたね。

 
豊橋市には世界でも類を見ない「 手筒花火 」というものがあるのをご存知でしょうか?

 
手筒花火 とは東三河地域独自の花火で、揚げ手が筒を脇の横に両手でしっかりと抱えるように持ち、巨大な火柱を噴出させ、最後に「ハネ」と呼ばれる炎が大音響とともに足元に吹き出す勇壮な花火として注目を集めています。

 
今回は、手筒花火の発祥の地といわれる吉田神社にスポットを当て、由来やどのようにして「豊橋祇園祭」が行われるようになったのかについて迫ります!

 
 
手筒花火
豊橋祇園祭が行われる吉田神社

 
今回、インタビューにご協力頂いたのは吉田神社の禰宜(ねぎ)、水谷昌泰さんです。

 
吉田神社の来歴から、豊橋祇園祭の歴史や、どのような経緯で行われてきたのか尋ねてみました。

 
 

水谷昌泰さん
吉田神社
禰宜(ねぎ)
趣味:酒宴

 
 

吉田神社の来歴

 
吉田神社の創建は明らかになっていませんが、治承2(1178)年、源頼朝が雲谷町の普門寺に立ち寄った際、家臣に参拝をさせたと伝わることから創建はこれ以前であると推測されています。

 
吉田神社は、京都の八坂神社に端を発する牛頭天王(ごずてんのう)の信仰に基づいて建てられた神社であるとされ、祭られている神様は素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。

牛頭天王は、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神であり、疫病よけの神徳を持つとされています。

 
江戸時代には吉田神社は吉田城の鎮守として「城内天王社」、あるいは、「吉田天王社」と呼ばれていたとされます。

 
 

吉田神社

 

祇園祭と 手筒花火

 
祇園祭は悪霊放逐を祈願する祭礼であるため、古代から神聖視されてきた火の使用は欠くことができない条件だったと言われており、天文12(1543)年のポルトガルからの鉄砲伝来以降、火薬の広がりとともに発展していったと考えられています。

 
 
織田信長と三河出身の徳川家康の連合軍が天正3(1575)年の長篠の戦いで鉄砲を使用して圧勝し、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成が合図に打ち上げ方式の狼煙(のろし)を使用したとされます。

 
こうした経緯から、三河の地域では火薬が身近な所にありました。

 
徳川家康が出身地の三河衆に火薬の製造を任せたことが、花火の発展に繋がったといいます。

 
 

手筒花火の様子(馬来田愛岳画)

 
 

目抜き通りで揚げた江戸時代

 
水谷さんも驚いたという、江戸時代には東海道の道の真ん中で行われた大筒花火や打上花火!
「今では絶対に考えられないよね」と笑みを浮かべながら答えてくれました。

 
 
「三河国吉田名蹤綜緑」の中には旧暦の6月14日に行なわれいた花火、15日に本祭の様子が描かれています。

放揚場所は東海道の宿場町(現新本町)であったとされています。

 

「三河国吉田名蹤綜緑」より

 
祭礼期間になると、通行は制限され、吉田藩主は本町中央の桟敷で花火を見物するのが恒例だったそうです。

 
吉田神社は古くから武家との結びつきが強かったとされ、特に江戸時代には吉田藩主の厚い保護を受けて祇園祭が発展していったそうです。

 
祇園祭は単に氏子の町内のものだけではなく、吉田藩の武家の祭りでもあったとされ、祭礼の費用を藩主の命で吉田領内の各地から拠出させるなど、江戸時代には吉田の町全体の総力をあげての祭礼であったとされています。

 
明治時代に入ると、吉田藩主の援助がなくなり、花火が途絶えてしまう期間もありましたが、氏子たちの努力により場所を転々としながらも手筒花火は吉田神社、打ち上げ花火は豊川河畔に落ち着いていきました。

 


吉田神社境内での神前手筒花火の様子
 

これからも伝統を守り続けていく

 

今後について、水谷さんに伺ってみたところ

『町内の皆さまや多くの方々の支えがあり、祇園祭が守られてきたことに感謝し、これからも豊橋祇園祭を守り、支えていきたい。』
と語ってくれました。
 
 

豊橋祇園祭の現在の姿

 
前編では、吉田神社と祇園祭りの由来などについて紹介して来ましたが、後編は7/21、22、23日より行なわれる、豊橋祇園祭の様子と吉田神社の今の姿について紹介していきます!